◆スノウドロップ◆



「師叔!!!」
総長の静寂を破って扉をバタン!と開ける音。
鼻先に感じる冷たい空気に太公望は毛布の中に再度身体を沈めた。
「師叔起きるさ!」
「わしは夕べは徹夜して軍書を書き上げたのじゃ……少し眠らせてくれ」
太公望が眠りに付いたのは一番鶏が声を上げた頃。
その声を聞いて眠ることを忘れていたことに気が付いたほどだった。
「ほら、雪降ってるさ!雪っ!」
「……雪……?」
言われるままに外に出ればちらちらと降り行く真白の雪。
掌の上で溶けて水となるのはまるで人の世の流れのようだと太公望は笑った。
「折角だがわしにはまだ仕事が山積でのう……気持ちだけ貰っておくよ。天化」
「もっとつもったらまた誘いに来るさ」
ひらひらと手を振って、天化を送り出す。
降り積もる雪の音が耳に心地よく、進める筆も幾分か軽やかだ。
半端になっていた書状を書き上げると太公望は小さく伸びをして空を見上げた。
「呂望」
「……申公豹か。何用じゃ?」
「雪見でもしませんか?たまには二人で」
「生憎と仕事が山積でな。軟禁状態じゃ……困ったことに」
次から次へと彼女の仕事は消えることがない。
夜中まで一人で筆を取ることなど当たり前にもなりつつあった。
疲労の色は化粧をしても消すことは出来ず、ならいっそとばかりに何もせずにそのままを晒すことにした。

「手伝いますよ。良い暇つぶしに成りますからね」
軍師殿に腰を落ち着け、申公豹はうず高く積まれた書類を手に取り筆を取る。
特に言葉を交わすことなく、黙々と二人は仕事をこなしていった。
「ねぇ、呂望はいつもこの部屋に閉じ込められてるの?」
金色の瞳を瞬かせ、黒点虎は四不象を見る。
仙界最強の道士の霊獣にふさわしく、黒点虎もまた霊獣の中では最高位の実力と破壊力を持っていた。
非戦闘的な四不象とは対照的な霊獣。
滅多なことでは宝貝を使わない気儘な申公豹と何千年も昼行灯な生き方をしてきた。
「可哀相だよ。もっと楽しいことしなきゃ。申公豹と居る時は、呂望、楽しそうだよ」
「ご主人はこの国の軍師っす。仕事はたくさんあって遊んでる暇なんて殆どないっすよ。最近なんか寝る時間だって
 少なくってるし……」
四不象が茶器に葉を落として湯を注ぐ。
「そうだね。申公豹みたに気楽な立場じゃなんだね」
ぴくりとその言葉に反応する男の姿。
「私が気楽な立場……そうですね。だからこそ、ここでこうして呂望と居られるのかもしれません」
声だけで返し、筆を止める事はない。
何千年の時を生き、世界の流れを見てきた不思議な男。
仙人となることを由とせずに道士の立場に甘んじる。
それはどこか太公望の姿勢にも似ていた。
「鳥は自由に飛ぶというが、鳥が飛ぶことは自由なのだろうか?」
太公望の声に申公豹が顔を上げる。
「羽根を休めることも出来ずに飛ぶ姿……優美ではありますが自由とは別物。常に死と隣り合わせですからね。
 その姿を自由と見るのは人間の勝手な解釈に過ぎません」
こと、と二人分の茶を入れて卓の上に乗せる。
「貴女は、自由と言う名の不自由に縛られてる人です。痛々しいほどに」
「……………………」
「私は、貴女が生きて……ほんの少しでも笑ってくれればそれでいい」
言葉の一つ一つが、耳の奥にこだましていく。
申公豹は気まぐれだが、見返りを求める行動も大してない。
ある一種彼女にとって心を開ける相手でもあった。
「呂望、疲れたでしょう?少し眠ったらどうですか。残りは私が片付けますから」
「すまん。その言葉に甘えさせてもらっても良いか?」
指先がすっと伸びて、太公望の額に触れる。
確かめるようにじっと瞳を合わせられ、太公望は同じように見つめ返した。
「微熱があります。軍師が身体を壊しては政も上手く行きませんよ。さ、おやすみなさい」
寝台を指差し、早く寝ろと促してくる。
ここ数日の激務は疲労を取る間もなく、次々と重なってくるばかり。
かといって自分以外のものに任せることもできず、太公望は自室と政務室の往復で一日を終えることが多かった。
「呂望も大変だね。でも、珍しいね。申公豹が誰かのために何かやるなんて」
「そうですか?私は気まぐれですからね」
程無くして小さな寝息が聞こえ始めると、満足気に彼は静かに笑った。




淡々と筆を進める申公豹を背に、霊獣二匹はあれこれと話し込む。
「御主人はいっつも無理しすぎっす。僕がいくら言っても聞かないっすよ」
「呂望、頑固なところあるもんね。申公豹もだよ。あの二人って似てると思うんだ」
「似てる?」
黒点虎は横目でちらりと申公豹を見る。
「自分以外の人間のために何かをするって所。それで、その見返りは求めないところ」
他人に興味など持たずに、唯一の関心事といえば時折うわさに名の通る美女くらい。
人間は一瞬の時間を生きる華のようなもの。
ならば存分に愛でてやろうと言うのが彼の言い分だった。
腕の中で咲き誇る花の栄華は一瞬。
悠久の時を生きる彼にとっては瞬きをする間のでき事に等しかった。
それでも、腕に抱いた女をその一瞬だけでも深く愛してきたことは事実。
「申公豹がさ、誰かに夢中になるなんて思わなかったよ」
黒点虎は天を仰ぐ。
主がここまで熱を上げたのは初めての出来事。
「呂望のためならどこだって行くからね。この間も……」
言いかけて黒点虎は口を閉じる。
太公望の気配をほんの少しだけ感じたからだ。
「なんだ、起きなかったんだ」
「寝かせてあげなさい。呂望はここ数日ろくに睡眠も取れない状態でしたから。それなのに粗野な男たちには困り
 果てたものです。迫ることだけが愛情ではないでしょう?」
半分ほど片付けて申公豹はこきこきと首を鳴らす。
眠る太公望の顔を見て、彼は穏やかな笑みを浮かべる。
天化やヨウゼン、発とは異なる接し方をするのがこの男。
女としてではなく、人間としての固体として接してくるのだ。
時には接吻一つしないで帰る事もある。
様々な見聞と感性を持ち、太公望の興味ありそうなものを持ってくる男。
「四不象。あなたも太公望を主と思うならたまにはゆっくりと寝かせてやりなさい。私にできることなんて
 限られてます。それですら彼女にとっては余計なことなんですから」
「ありがたい限りじゃな。申公豹」
未だ少し眠たげに太公望は口元を押さえながら身体をゆっくりと起こす。
「あとはわしが片付けるよ。助かった」
「たまにはゆっくりしなさい。良い暇つぶしに成るんですよ、こんなことでも」
傍らに座って頬杖をつきながら、その指先を見つめる。
最強の道士と恐れられ、一度は対峙したことのある男。
宝貝を握るのも、自分を抱くのも、この手なのだ。
「どうかしましたか?」
「おぬしは本当は争い事が嫌いなのだろうな、と思って」
すっと手が伸びてきて前髪を掻き分けて額に触れる。
そのまま手は頬に下がり、こつんと額が優しく当たった。
「まだ、少しだけ熱がありますね」
「これ以上寝ていたらおぬしと話も出来ぬ」
「話なんて何時だって出来ますよ。私はあなたに休息を与えたいのです。あなたはこれから大きな戦を起こすのですから。
 今だけです……私があなたを甘やかしてやれるのは」
ふ…と瞳が悲しげに歪む。
彼女を飲み込む大きな運命の渦は、暗く大きな口をぽっかりとあけているのだ。
「出来るなら、あなたに掛かる火の粉を払ってあげたい……」
両手で頬を押さえて、申公豹は続けた。
「払ったところであなたはきっと次の火の粉を浴びることを選ぶんでしょうね、呂望」
「……申公豹……」
「あなたが傷を負うのを見るのは辛いはずなのに……傷さえもあなたを彩る華になる」
静かにその額に唇を落とす。
「物好きな男だ。わしのどこがそんなに良い?」
「自分がどれだけ綺麗なのかを知らないところでしょうね。宝貝を手にし、前を見て戦うあなたに惚れない
 男などいませんよ。故に……兵は皆あなたに命を預ける。軍師に惚れなければ戦うことなどできませんからね」
同じように頬に手を伸ばし、太公望はくすくすと笑う。
「面白いことを……わしに惚れる?それこそ笑い種になってしまう」
「歴史に名を連ねるものは始め間は皆、笑いものでしたよ」
くしゃくしゃと髪を撫でられ、くすぐったそうに彼女は目を閉じた。
「私は気まぐれですからね。あなたのようにちょっとばかり変わった人の方がいいのですよ」
手はそのまま背を滑り、そっと抱きしめてくる。
「ああ……あなたに武運があることを祈るしか……」
「大丈夫じゃよ。まだ、わしは死なぬ」
気が付けば溶ける様な夕日が室内を染めていく。
長く伸びた影が二つ、縺れるように触れ合っていた。
「黒点虎。四不象を連れて出かけてきてください。私はもう少し呂望と話がしたいのです」
「だってさ。たまには霊穴でゆっくりとしようか。四不象」
黒点虎は四不象を連れ立ってどこかへと消えていく。
「珍しいですね。あなたが甘えてくるなんて」
「……疲れた。サボらせてくれるのはおぬしぐらいしかおらぬ……」
拗ねた子供のような表情で太公望は男をじっと見上げた。
「わしだって遊びたい時ぐらいある。なのに旦と来たらわしの顔を見れば、軍議だ発案書だと面倒なことばかり
 持ち込んでくる。発も万年発情期でも来てるかのようじゃ。天化もヨウゼンも頭の中は同じ。まったく……」
ぽふ、と胸に顔を埋める。
その小さな頭を抱いて申公豹は優しく撫で摩る。
「それでも、嫌ではないのでしょう?この賑やかな日々が」
太公望の周りには必ず誰かしらがいる。
そして、皆一様に笑っているのだ。
とても今から大戦争を巻き起こすなどということが嘘であるかのように。
「だから嫌なのだ。わしは、今のこの日々を嫌っていない」
ぎゅっと道衣を掴んでくる手。
「ええ、あなたはそういう人です」
「でも、たまにはわしとてゆっくりしたい。本だって読みたければ外にも出たいのだ。一人ですごしたい夜もあれば
 スープーと寝所を共にしたいときもある」
それは小さな我儘。
彼女が望むのはほんの些細な事ばかりなのだ。
「全部とは行きませんが、多少なりなら叶えてあげられますよ」
「おぬしと居ると調子が狂う……どうしたらいいのか分からなくなる」
次第に小さくなる声。
さらさらと指の隙間をぬける髪。
「不安ですよ……あなたはふいに消えてしまいそうで」
その不安はこの腕の中に抱いても消えることなどなく、自分を支配する。
まるで掌で溶けてしまうよう淡い雪の様で。
「わしは消えぬよ。やるべきことがありすぎる」
「ええ……私の呂望……」
出来るのは強がる彼女の殻を剥ぎ、その肩を抱くことだけ。
どれだけ体を許しても、心の底に沈む小さな宝石に彼女は決して触れさせてはくれないのだ。
その代償とばかりに、求めてくるものにその身をゆだねる。
本心には指一本触れさせることなく。
「私だけのもの出来たら……どんなに幸せでしょう」
「わしは生涯わしのものじゃ。誰のものにもならぬ」
「ええ……そうでしょうね……呂望」
夕日にはらはらと舞い散る雪は、桜吹雪のように淡い桃色。
「……綺麗……」
「そうですね……とても、綺麗です」
それは運命に選ばれてしまったこの少女に対する自然からのささやかな贈り物だったのかもしれない。
桃色の雪など、奇跡でも起きなければ降る事などないのだから。
「たまには何もせず、ただあなたを抱きしめて眠るのもよいかもしれませんね」
「おぬしぐらいじゃ。寝床を共にして触れて来ぬ夜がある男は」
抱きあげられて太公望はけらけらと笑う。
「自分でも歩ける」
「私がこうしたいのです。たまには良いでしょう?」




窓も扉も締め切って、香を焚き詰めた室内でそっと目を閉じる。
互いの心音が布越しに伝わってその規則正しい音色は眠りへと誘う麻薬のようなもの。
「おぬしの修行時代はどんなものだったのだ?」
申公豹の胸に耳を当て、太公望は目を閉じる。
その肩を抱いて、同じように彼も目を閉じていた。
「あなたと一緒でしょっちゅうサボってばかりでしたよ」
「ならばわしもいずれは仙界最強の仙女になれるという事か?」
含み笑いと、悪戯に耳を撫でる指先。
「そうなりますね。でも、あなたはそれは望まないでしょう?」
地位も、名誉も、金も、彼女が欲するものではない。
「あなたがほしいものと言えば、どうせまた桃だの餡饅だのというのでしょうから」
「桃も、アンマンもわしにとっては大事なものじゃ。詰まらぬ物ではないぞ」
何時だってはぐらかしてばかりで、彼女は本当の気持ちを言わない。
心にはいつも、自分ではない影が住み着いている。
「もう、おやすみなさい……呂望」
「………………」
「今夜一晩くらい、あなたの父君にはなれませんが、兄の代役くらいにはなれますよ」
「そうか……兄上……」
笑いながら太公望はそっと身体を寄せる。
妹を抱いてあやすように、申公豹は彼女を抱きしめた。
(私にも……かつては家族と言うものがありました……)
それは遠い昔のこと。今では断片的にしか思い出せない愛しかったはずの日々。
懐かしく暖かかった日々の思い出よりも、この腕の中で眠る少女を迷うことなく選んだ。
思い出はいつでも綺麗過ぎて、それだけでは物足りなくなってしまう。
(呂望、あなたが許すのならばあなたとならばそれに近いものを得ることが出来るような気がするのですよ)
綺麗だとばかり思っていた花には隠れた棘。
刺さって抜けない。
(これは私の一人よがりの思いです)
小さな頭を掻き抱いて、その体温を確かめる。
(でも、兄のままでいるわけにも行きませんからね)
敵は大勢、負けるわけには行かない。
選ばれるべきたった一人になるために男たちは東奔西走。
その手を取るために虎視眈々。火花を散らしてにらみ合いの日々。
昨日の敵は、今日も明日も朝っても、未来永劫ずっと恋敵。
永い時を生きて、こんなにも騒がしい日々がやってくるなんて思ってもみなかった。
そして、その騒がしい日々を愛しいと思える自分にも戸惑う。
手が、声が、心が。
自分が人間であったことを証明するかのように生き生きとしているのだ。
(あなたに出会って私は随分と変わったようです……)
さらさらと流れる黒髪は、つかめない彼女の心の写し。
(いつか、あなたの心に触れることが許されるのならば)
眠る額にそっと接吻する。
(あなたの心ごと、抱きしめたいと思うのです……)
しんしんと降り積もる雪は、無言の思い。
どれだけ不安に苛まれても、この腕に抱きしめるだけでそれは消えてしまう。
躊躇いも、後悔も、もういらない。
(敵は大勢です。負けませんよ、呂望)
同じように、申公豹も静かに目を閉じた。




「……ん……朝……?」
肌寒い空気の中、手を伸ばす。指先はもどかしく空気を掴むだけ。
目が覚める前に申公豹はどこかへ消えてしまったらしい。
(毎回、忙しない男だ……)
ばさりと道衣を羽織って鏡台の前に立つ。
「……花……」
小さな陶器に入った真白の可憐な花。
淡く輝くその鉢には真紅の絲帯(リボン)が小さく飾られていた。
対を成すように甘く、柔らかく咲き誇り目を引く。
他の花と交わることのない、それ単品で美しく揺れる花はどことなく彼女に似ているようにも見える。
「街雪草(スノードロップ)か……」
春の訪れを告げるその花。真冬の手前に手に入れるにはどこまで足を伸ばしたのだろう。
ただ、恋人の笑顔を見るためだけに。
「ご主人、おはようっす!!」
「スープー。良かった、帰ってきたのだな」
太公望の手の中の、小さな鉢に四不象も目が留まる。
「綺麗っすね。どうしたっすか?」
「申公豹がくれたのだよ。花など貰ったのは……」
嬉しそうに目を閉じる姿。
凛とした香り、風に揺れる真摯な姿。
「もう少し、頑張らねばな……スープー、今日も忙しくなるぞ」
「ハイっす!!」





「いいの?呂望の傍に居なくても」
朝歌上空、申公豹は風を受けながら笑う。
「いいんですよ。あの花の意味は……呂望なら分かりますから」
「でなきゃあんなに苦労してまで西の果てになんか行かないよね。申公豹、本当に呂望が好きなんだね」
改めて言われれば、照れることもあるらしい。
「黒点虎!!」
「僕、呂望なら洞府に来てもいいと思うよ。この間もブラッシングしてもらったし。気持ちよかったよ」
「……いずれは、そうしてもらうつもりです」
恋敵は虎視眈々と彼女を狙う。
ならば、そこから連れ出すだけ。
「さぁ、行きますよ。今日は東の果てを目指します!」
「ええ〜〜〜〜っ!!!」
賑やかな日々を愛して、甘受する。
それがこんなに心地よいものだとは思わなかった。
白く揺れる小さな花は、彼女の傍。
時折醸し出される凛とした香りは、今もこの胸に染み込んでいるから。





         『スノードロップ 花言葉
          希望、初めての恋   』








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